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躑躅ヶ崎館・武田神社(甲府市古府中町)

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写真: 躑躅ヶ崎館・武田神社(甲府市古府中町)

写真: 躑躅ヶ崎館・武田神社(甲府市古府中町) 写真: 海野信親(武田竜芳)屋敷跡および供養塔(甲府市古府中町)

躑躅ヶ崎館・武田神社(甲府市古府中町)
神橋・鳥居。

http://twitter.com/oftheRoundTable



mixi記事コピペ――2014年06月01日 12:06
14.05.30.
3回目\( ̄▽ ̄)/
●躑躅ヶ崎館――
築城主、武田信虎
築城年、永正16(1519)年
改修者、武田晴信、武田勝頼、徳川・豊臣
廃城年、文禄3(1594)年
日本100名城。

戦国時代に築かれた甲斐源氏武田氏の本拠地で、居館と家臣団屋敷地や城下町が一体となっている。
信虎、晴信(信玄)、勝頼3代の63年間府中として機能し、後に広域城下町としての甲府や、近代以降の甲府市の原型となった。
県中部、甲府盆地の北端、南流する相川扇状地上に位置する。東西を藤川と相川に囲まれ、背に詰城である要害山城を配置した構造になっている。館の東側に躑躅ヶ崎という台地が突き出しており、これがその名の由来。
要害山城築城は翌年。
居館と言いながら、水堀、土塁などの規模はとても広大で(東西約200m・南北約190m、面積は約1.4万坪(約4.6万m2)と推定される。)、近世城郭に近い規模を持っている。これは勝頼や徳川家、豊臣家臣によって改修されたもので、信虎、晴信時代の古地図(永禄年間)を見ると主郭ひとつのみしか書かれていない。それなら本当にただの居館だ。同図には内部のレイアウトも記されており、中央に主殿、火焼間、看経所、膳所、南側に築山、泉水、北側に台所、太郎様御所、産所、広間、南西に二階櫓と雪隠、北東に毘沙門堂、御旗屋、庫裏、風呂となっているそうだ。
大手口は東側、北と西に虎口、南側に虎口はなかった。(つまり現在の神社入口はこのために造成されたもので、神橋の立派な城壁に見える石垣もつまりは近代に築かれたもの。)

「人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり」――これは信玄公自身が口にしたかどうかは定かではなく、信玄公の領国経営を甲陽軍鑑がそう称えているだけである。実際、「城よりも人の心を掌握する事こそが大事である」・「人こそが国の基(礎)である」・「巨大な城郭には住まない」という信念があった(不詳w)。
慎重に慎重を期す(規す?)信玄公が、この館のみで安心していたとは思えない。しかし、信玄統治中に甲斐国内に新城の築城はなく、また甲斐国内への侵攻もない。これもよくよく調べてみれば、府中という地域全体を要塞化しようとしていたという説がある。北には詰城の要害山城、さらに北奥に川窪城、西に湯村山城、南に一条小山城……東は北から南まで山地。街道整備や家臣の所領配置など防備に抜かりはなかったということか。信虎時代、甲斐国内の有力国人(親族衆はじめ)らが躑躅ヶ崎館の建設後に本拠の要地移転を実施している。晴信入道信玄は、信濃、駿河、上野、遠江、三河などを勢力下に収めても、本拠地は一貫して躑躅ヶ崎館(要害山城含む)だった。

西曲輪と北曲輪が設けられたのは勝頼時代。要害山城も改修している。
梅翁曲輪や天守台などは徳川家臣 平岩氏の時代に築かれたものか(当然豊臣家臣時代のものとの説もある)。しかし天正11年には甲府城の築城が始まっていたかもしれないので、ここをどう活用しようとしていたのか…。天正17〜19年説であれば、家康所領時代にはここが甲斐の拠点として利用されていたことだろう。そもそも、勝頼が新府城移転の際、ここは破壊していった(とも読んだ)。



●武田神社――
御祭神、武田信玄公(武田晴信命)
御神徳、武神・軍神としての性格(勝運)、事績にまつわる水運・農業・鉱業などの産業経済。
創建、大正8(1919)年

近代、武田氏館跡は「古城」・「御屋形跡」と呼ばれ、武田氏時代を偲ぶ名所のひとつとして観光客が訪れる程度だった。
明治13(1880)年、明治天皇地方巡幸。この際、武田信玄ゆかりの社寺保存に保存金を下賜。山梨県ではこれを契機に信玄霊社建設運動が起こる。
※明治維新後、歴史上の忠臣や勤皇家に官位追贈が行われるようになる。
※日露戦争後、神社に武神・軍神を祀ることが奨励される。これにも軍神と評される武田信玄公を祀った神社創建の機運が高まった。
大正4(1915)年、大正天皇即位記念に、武田信玄公へ従三位追贈。これを機に「武田神社奉建会」が設立された。

大正8(1919)年、社殿竣工。
信玄公命日にあたる4月12日に、初の例祭が行われた。
別格官幣社への昇格運動。上杉謙信公を祀った上杉神社が指定されていたことへの対抗意識。郷土史家たちは内務省が昇格条件に求める勤皇事跡の発掘に励んだ。

例大祭では神輿の後に武田二十四将を模した騎馬行列が行われている。
昭和22(1947)年、甲府市と市商工会議所、観光協会の共同開催で桜祭りが開催され、最終日を例祭に合わせた。以降この体で行われる。
以後、観光業振興により武田信玄が歴史的観光資源として着目される。
昭和41(1966)年、甲府信玄祭開催。以来行政主導による都市祭礼としての信玄公祭りが4月12日前の土日に催され、地域住民による例祭と共存。以来――

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