洲崎橋跡・洲崎大門跡(江東区)東
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赤線跡――
明治20(1887)年までに富坂(現 文京区)に東京帝国大学校舎新築が計画されたため、風紀上の観点から直近の根津遊廓の移転が決定。
しかし、最大の歓楽街だった吉原に受け入れの許容がなかったため、明治19(1886)年6月、洲崎弁天の東側の広大な湿地を整備して移転となった。
洲崎弁天町が誕生した。
大正時代末期には300軒前後の遊郭がひしめき、吉原と双璧をなす規模の大歓楽街となっていた。
(吉原は「北国(ほっこく)」、洲崎は「辰巳(たつみ)」と異名を持った。)
第二次大戦で焼け野原となるが(深川本所は焼夷弾の雨を降らされ灰塵となった(´;ω;`))、戦後わずか半年で再興された。「洲崎パラダイス」の愛称で下町の男たちを引き寄せ、その規模と海の直近という風情から、吉原以上の人気を誇る歓楽街として――昭和33(1958)年、売春防止法成立まで――隆盛を誇った。
Albums: 東京都4江東区/武州江戸
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