11.03.14.土手通り 吉原大門交差点(台東区)吉原遊廓跡
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mixiアルバム「台東区日本堤1丁目 ・桜鍋/千束3 ・4丁目 ・吉原 (11.03.14、12.02.21.)」コピペ――
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2012年02月22日 01:15
●日本堤 ・土手通り――
日本堤の名はもともと江戸時代に作られた土手道を指したもので、現在の土手通りにあたる。
土手は、今戸橋(待乳山聖天付近)から箕輪浄閑寺にかけて、水路に沿って築かれていた。下流の山谷堀近辺では両岸に土手を築いていたことから「二本堤」と呼ばれるようになったという。
吉原が移転してきてからは「吉原土手」「かよい馴れたる土手八丁」などとも呼ばれ、遊びに通う江戸っ子たちで賑わった。
●桜鍋(サクラ鍋、さくらなべ)――
馬肉(桜肉)をすき焼きのようにして食べる鍋料理のこと。味噌仕立てのすき焼き風に馬肉を煮る桜鍋は,明治初期から続く東京の伝統料理で、精力をつける料理なので吉原など色街の近くに多かった。馬肉の生産地熊本にも同じ料理がある。また、馬肉をしゃぶしゃぶの要領で食すこともある。
●見返り柳――
衣紋坂入口の左手にある柳。遊び帰りの客が後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ振り返ったという。現在は跡地に石碑が建つ。すぐ後ろにある柳の木は昭和になってから植えられたもの。
●大門(おおもん)――
吉原歓楽街への正面玄関。治安目的は勿論、遊女たちの逃亡を防ぐため、出入はこの大門一箇所のみとされた。江戸時代には黒塗り木造のアーチ型楼門が建設され、明治期には2代目となる鉄門が築かれたが、1911年の大火で焼失。関東大震災を機会に撤去された。現在は「吉原大門(よしわらおおもん)」の交差点名とバス停名で残っている。
●衣紋坂(えもんざか)――
遊客がここで衣紋をつくろう(身なりを整える)ことに由来するという。土手通りから吉原遊郭の入口の間にある坂。
将軍が日光へ赴く際などに、街道から遊廓を見通せないよう、S字状に道を付けたとされる。
●千束――
足立区入谷には戦国時代まで「千束池」があったという。千束という地名が稲千束を意味するのか、千僧供養に関する料田から来たか分かっていない。
千束3丁目と千束4丁目付近は吉原(新吉原)と呼ばれ、江戸時代には吉原遊廓と呼ばれる江戸幕府公認の遊廓があったところ。この吉原は赤線地帯を経、売春防止法施行後はその名残として千束4丁目付近のソープランド街として残っている。その規模・店舗数は日本一。
戦後は朝鮮マーケットととなり、多くの朝鮮人が居住するようになった。
元吉原は現 中央区日本橋人形町。そっちの話はまた後日…。
●吉原神社――
浅草七福神の一つ。芸能の神様として崇敬されている。
●吉原弁財天――
関東大震災の時、火災から逃れる為に吉原の遊女がこの近くにあった弁天池に身を投げて、多数の死者が出た。今でも地元の人々が清掃など維持管理している。なお、弁天池はその後埋め立てられ、現在NTT吉原となっている。
Albums: 東京都2台東区/武州江戸
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